急所
曾祖母が亡くなったのは今年の4月だった。
小学生の頃に父と妹を亡くして以来、私の近親者で3人目の欠員となった。
93歳の大往生で医師によると内臓も全て綺麗な状態であり「理想的な老衰」と。
小さい頃は曾祖母自慢の手料理を食べに母に連れられてよく遊びにも行ったし、年に1度元旦は曾祖母の家に一族の皆で集まるのが恒例であったが、私や姉やいとこたちの成長につれて各々用事も増え集まる人数はぽつりぽつりと減り、いつしか毎年の恒例行事すら誰の合図もなく自然と無くなった。
毎年の恒例行事が無くなり、少ししてから曾祖母が認知症で施設に入ったことを母づてに聞いた。私達にとっては1年のうちのたった1日に過ぎないような行事でも曾祖母にとっては大きな意味があったのかもしれないし、もしかしたら毎年その日のために気を張って毎日を過ごしていたのかもしれない。
曾祖母を壊してしまったのは自分たちなのかもしれないと酷く心が痛んだことを覚えている。
集まりが無くなった本当の理由は一族の誰もが皆年々曾祖母から「死のかおり」のようなものを感じていたからなのかもしれない。会うのが年に1度になってからは毎年曾祖母が壊れ、違う人間になっていくことが目に見えて感じられたのはきっと私だけではなかったはずである。
それでも大好きだった曾祖母に勇気を出して施設に1人で会いに行ったこともあったが、その時には私のことを何も覚えてはいなかった。代わりにベッドの脇にかつての私の小さい頃の写真が並べられており、曾祖母は丁寧に、他人にするように私に向かって自分のひ孫の話をし始めた。
曾祖母にとっての私は目の前の私ではなく、大きくなってからは自分から遠ざかってしまった私なんかではなく、おぼつかなくとも2本の足で自分にすり寄ってきた男の子こそが私だったのだろう。
それ以来曾祖母に会いに行く勇気はもう無かった。
通夜には私も姉もいとこも参加したが、祖母や母が泣き出したのを皮切りにそれまで殆ど曾祖母に会いにも来なかったいとこ達がおんおんと泣き出して、やっぱり私はこいつらが嫌いだなと思った。大衆が悲しくもないのに泣きたくてわざわざ涙腺を刺激するような本や映画や音楽といったコンテンツを探して泣くように、無責任に泣くいとこ達にこれ以上ない嫌悪感を感じた。
ぴくりともならない私を見て薄情だと誹りを受けたが、現実に起こっている人の死をコンテンツとして消化しているお前達こそ曾祖母への冒涜だと言ってやりたい気持ちでいっぱいだった。
今の職場の一番良い点は、異動があっても実家のある千葉県内で働くことができ、母にすぐ会いに行くことができることである。
Twitterでも書いたように前職で忙しくて母に1年会えず、久々に母に会った際にそれまで生えてなかった白髪を母のつむじから見つけて私はひどく狼狽えた。母にも曾祖母から感じた「死のかおり」を少なからず感じてしまったからである。
私が便宜上名前を付けているこの「死のかおり」にどれだけの魔力があるのかは私にも未知であるが、この得体のしれない魔力のせいで自分が大好きな母からさえも遠ざかってしまうのがこわかった。
母は間違いなく私にとって1番の急所である。例えがあまり良くないのはわかっているのだが、1番しっくりくる例えがこれである。
母の老いを実感しない頻度で母に会いに行き、月日が流れ実際に肉体は歳を取ろうとも「あ、前回会った時と何も変わっていない」という勘違いをあと何十年もし続けたいし、いつか月単位でも老いを感じるようになってしまったらもっと会う頻度を増やすことでなんとか勘違いを引き延ばしていきたい。
いつか勘違いをしきれないくらいになる日は間違いなく来るのだろうけれど、その時のことは今考えると苦しくなるし、幸いまだピンピンしているのにそこまで考えるのも母に失礼だろうから今は考えないようにする。
年始に母に会う約束を取り付けているが、きっと前回会った時と何も変わっていない。
結婚できない男
昔から体育祭のリレーが嫌いだった。
リレーの選手に毎年選ばれる程度に足の速さには覚えがあったし、アンカーを任され1位を取ることも多かった。
走ってる最中や前走者を抜いたときの歓声はいつも気持ちが良かったし、リレーは必ず体育祭終盤に組み込まれており、かつ得点の配点も大きいのでチームへの貢献度が高いことも私の自尊心を満たしてくれていた。
矛盾するようだがリレーそれ自体は大きく分ければ好きだった。
そんな一見おいしい理由を含めてリレーが嫌いだった理由はリレーを走るように、アンカーを引き受けるように、そしてアンカーとして走るからにはチームを背負って結果を出すように「後は頼んだ」と責任を押し付けられるのがいつも嫌だったからである。
私は元来足が速かった訳ではなく、むしろ気管支が本当に弱くて少し走っただけで嘔吐をしたり、救急車で運ばれたりと走る以前のポンコツだったのだが、これではいかんと放課後毎日道端で嘔吐しながら自分の弱い気管支に鞭を打って走っているうちに足が速くなっていた。(思い返すと迷惑な話なので誇るどころか反省をしている。)
「こいつに任せればあとはなんとかしてくれるだろう」、そう思われるために私がどれだけの努力を積んできたのか、お前達は責任を投げるだけで想像をしたことも無いだろうといつも1人で腹を立てていた。
足が速くもないくせに威勢だけは良くて矢鱈と目立つうるさい奴等に「負けたら許さないぞ」と出鱈目な発破をかけられるのも癪に触ったし、そういう目立つだけの奴等に自分の順位をチーム全体の結果として喜ばれたり1位を取った感動から泣かれたのは今思い返しても腹が立つ。
話は変わるが、25歳を境に求婚をされることが多くなった。
同姓の友人達と話をしているときに皆も同じ事を言っていた。
誤解を与えてしまうといけないので先に断っておくが、我々は誰もが振り向くような色男では決してないし、もっと分かりやすく言うと世間一般的にモテる方ではない。都市伝説に聞くモテさんとは生来疎遠である。
こんなブログを書くくらいだから自分で言うまでもなく、どちらかというと話もつまらない。
我々の頭を突き合わせて我々に共通していることを考え挙げてみる。
皆勤勉で、仕事に野心を持ち、酒も煙草もギャンブルも金の激しく掛かるようか趣味も無い。将来へのビジョンもある程度描けており、かつある程度のまとまった貯金ができている、女っ気があまりないといったことが出てくる。
続けて我々に求婚をしてくる女性達の共通項を、同じく皆で頭を突き合わせて考え挙げてみる。
皆容姿は整っていて、遊びに堪能で、労働の報酬は毎月綺麗に使い切り、もちろん貯えは殆ど無い。我々では考えられない数の元恋人が存在し、口癖は「そろそろ結婚がしたい」。
なるほど考えれば考えるほどに悲しくなってくるのだが、衣類を洗う機械や食料を冷やして保存する機械、米を炊く機械が生活に必要なように彼女達の生活にとって機械さながらのように金を泉のごとく生み出す"なにか”も必要なのだろう。
私は結婚は独立した二人がするからこそ幸せになれるものだと思っている。
一人でも生きていけるような二人が恋に落ちて結ばれるからこそ価値があるのではないか、と。
近頃は結婚は契約と随分と人の営みを小馬鹿にした例えを使う人も増えてきたが、少なくとも結婚をゴールにしているような人との結婚に幸せを期待できるのかというと、私は難しいと思う。
先に挙げた彼女達のような女性について言うならば、今まで先のことを具体的に考えず、勉強もせず、金も貯めず、何かを積み重ねることを覚えることなく生きてきたような女性の人生の尻拭いに、人生の帳尻合わせにどうして自分が使われなければならないのかと。
配偶者の貯蓄をあてにしている訳ではなく、貯蓄が計画的にできていないような女性に家計を握らせることは恐ろしいし、そんな女性に母親が務まるのかも不安である。
そもそも誰かの人生に乗っからなければ生きていけないような配偶者なぞ究極の不良債権以外の何物でもない。
何を勘違いしているのかわからないが我々は独身を謳歌しているのだぞ、と。
君達に不本意ながら「こいつに任せればあとはなんとかしてくれるだろう」と思われるようになるまでに一体我々がどれだけの努力を積んできたか。
激しく既視感を感じるようになったのは最近だが、人生最後のリレーは18歳高校3年生。ここにきてかつて第4走者だった頃の自分と今の自分が重なるとは思っていなかった。
汝は
「先生ですよね……?」
日常生活を送る上で個々人が呼ばれる呼称はおおよそ3〜5つほどだろうが、この普段よく呼ばれる3〜5つの呼称に該当しない呼ばれ方をするとなるほど人はすっかり膠着状態になってしまうのだなあと。
加えて、声を掛けてきた人物が自分の記憶のどこを探しても覚えが無いとなると人違いの可能性を示唆するのは当然のことであろうが、彼女の名前とかつて自分の家庭教師の教え子であったことを聞くと間違っていたのは自分であったとひどく赤っ恥をかいた。
この短時間に2回も殴られたような気分になってしまった。
決して印象の弱かった生徒というわけではなく、むしろ聞き分けも良く宿題もきちんとやるような、模範的な生徒という点では私の中には強く印象に残っていた生徒であった。
学生時代に家庭教師として務まっていたのはひとえにこういう模範的な生徒のお陰であったのかもしれない。
しかし当時12歳の彼女が記憶そのままに19歳の姿になって私の前に現れたのだから、彼女が誰なのかを認知できないのは仕方がないことのように思える。
銀座に不案内なものの、なんとか手頃なお店に落ち着いてからは私が彼女を忘れていた(認知ができなかった)ことについてひどく詰問をされたが、今はコンタクトレンズ使用の彼女が12歳当時ピンク縁のメタルフレームを掛けていたことと、熊の柄のトレーナーをお気に入りにしていたことを話すと、なんとか許しを得ることができた。
姿形が当時とかけ離れているのでは仕方がない。忘れていたことと認知ができなかったことにはきちんとした隔たりがあり、同じ意味ではない。
7つ年下の異性との雑談が意外にも話題に事欠かなかったのは私が約2年半ほど彼女を生徒として受け持ち、少なくとも授業と休憩時間の間は同じ時間を共有していたからであろう。
でなければどう間を持たせて良いのかわからなくなるくらいに、私も彼女も決してお喋りが上手な方ではなかった。
口下手同士なりにも思い出話は盛り上がった。
お喋りが得ではない彼女なりの親和の証として、つまむだけでぼろぼろと崩れるようなクッキーを焼いてくれたことや部屋がぬいぐるみだらけだったこと、彼女のトレードマークであったピンクの眼鏡の形が真ん丸で少しも垢抜けていなかったことをからかうと「先生はいつも優しかったです」と始まり、私が彼女の部屋のぬいぐるみの手足を持って動かすことでコミュニケーションを図ったことや算数や数学を教えるときにはなるべくわかりやすいよう下手くそなりに一生懸命絵を描いていたこと、今はからかっているようなクッキーの出来も当時はすごく褒めたことを話されてしまい思わず降参をしてしまった。
しばらく会わない間に彼女の方が私より何枚も上手になっていた気がして、その日3度目の殴打を受けた気がした。
家庭教師はその性質上、あまりに個人的なことについては話すことを禁止されていたために当時自分の話をする際はかなり話を選んでいた覚えがあるが、この日は呼称としての「先生」があるだけで今の私は彼女の家庭教師でもなんでもなかったので、可能な限り彼女の質問に答えるようにした。
余談だが、この日私は招待を受けた結婚式に出席をしたために銀座に居た。披露宴で食べた上質な肉や魚や海鮮が普段ビール2杯で限界な私の胃に上質な膜を張ったのか、この日は自分でもびっくりするくらいに飲めた。アルコールも相まってか、聞かれたことはほぼ包み隠さず話していたように思う。(もちろん、彼女は未成年なためソフトドリンク縛りである。)
生徒として受け持っていた時は彼女の容姿に関してはピンクの眼鏡があまりにその存在感を主張していたために私はピンクの眼鏡と話をしているような、ピンクの眼鏡を彼女そのものとして捉えていた節があったが、この日初めてきちんと彼女の顔を見た。
例えば目が大きかったり鼻筋がすごく通っているような主張をするような特徴的なパーツはないものの、バランスの取れた小作りな顔をしていてなるほど綺麗な顔をしていたのだなとその時初めて思ったりもした。
未成年を遅くまで連れ出すのも正直気が引けたので、私は予め22時を勝手にリミットとして決めていた。
22時が迫り会計を済ませようとすると彼女は急いで財布を取り出し、いくら断ろうとも「自分もアルバイトをしているのだから」と私のポケットに無理矢理自分の食い扶持分をねじ込もうとしてきた。
前職で立食パーティーや会食でよく顔を合わせていた女性達には是非とも見習ってもらいたいくらいに、彼女は誇り高い性格をしているのだなあと感心をした。
会計に関してはどうにかして私の顔を立てさせてもらうことを納得してもらい、別れ際に連絡先を聞かれ解散をした。
彼女の姿を見送ってから歩き出すと目を開けているのに目の前が暗転し、急に歩けなくなってしまった。
結婚式用の一張羅姿のまま地べたに腰を下ろし、お会計の際受け取ったレシートでこの日どれだけのアルコールを接種したのかを数えてみる。
ビールが4杯、ハイボールが3杯。
どうやら私はとんでもなく緊張をしていたらしい。2杯で限界なら7杯は致死量である。
この日はもう、千葉までは帰れなかった。
4年
約1年ぶりの更新ですかね。
再び失踪するかもしれませんが、たまには時給換算されないような、もしくはそれに繋がらないような不経済活動にも時間を割いてみたいと思いましたので近況を。
「君達、大学4年間が終わるのは早かったろ。次の4年もきっと早いぞ。」
大学4年次の、履修はしていたものの普段顔を出すことが無かった講義の最終回に気まぐれで出たときの講師の言葉であった。
今年で社会人も4年目だが、この言葉をまだパッと思い出せるくらいに私にとってこの4年間は早かった。
最近人生初の転職したせいもあって今年は一層早く感じそうである。
新卒としての就職活動は、正直周りから大顰蹙を買う程に上々であった。
私が着なれないスーツを来て会社をかけずり回ったのは2月〜4月の2ヶ月間だけで、名前の聞いたことのある同一業界(金融業界)の企業10社程にエントリーをし、ひたすら毎日企業を梯子しながら筆記試験と面接を受け、気がついたら自分には4つの進路があった。
最初の就職先を決めたのも他3つの内定先の倍率が200倍だったのに対し、私の選んだ企業の倍率が800倍であった、ただそれだけの理由で特別な思い入れは何も無かった。
大震災の翌年ということで氷河期とも言われた年だったようだが、少なくとも私には春だった。どんな難関指定されている企業だって面白いように通り、そして蹴った。
思い返すと恥ずかしいが、あの頃の私は全能感に浸りきっていたし、とにかく傲慢だった。
新卒として入社をしてからは今までで一番辛酸を舐めた。
配属先の課にある40あまりの電話を全て1人で3コール以内に出るよう命じられ、やり方もわからない仕事を教えてもらうこともなく毎月他の人の5倍以上の量をこなし、しくじりが見つかり怒鳴られるだけで1日が終わることも多々あった。
勤怠記録に打刻される数字の改ざんを何度も行い、毎日の睡眠時間は1日3時間を切った。
新卒の身の丈に合わないほどに額の大きな給料を先に投げつけられ、実際の身の丈に合う給料分との差額分だけ、私はとにかく痛めつけられた。
毎日が試合の延長戦で、毎日溺れながら会社に通った。
疎遠ながらも一応は入会している同期のグループラインで、毎日深夜に流れてくる報告を見ては誰しもが自分と同じ仕打ちを受けていることに変な安堵を感じ、それを励みに毎朝出社した。
1年経つ頃には日頃の仕事ぶりとラッキーパンチが当たったことから本社から賞を貰えた。2年目で出世をし、なじるような喋り方しかしてこなかった人達がいつの間にか敬語になり、早く帰れるようにもなった。
余裕ができたのである。
この頃には私なりにこの業界、ひいてはこの会社での“しきたり”も、私が受けた理不尽な仕打ちの理由も新たな新卒が入ることで理解ができるようになった。
説明をすると金融業界は商品に形が無いために一社が優れた商品を開発すると強豪他社もすぐにそれを真似ることができる。
商品の新作発表or改定or廃止が年中を通して行われ、例えベテランの社員といえども自分の中にストックされている既存の知識が更地になることもザラなのである。
こうなってくると既存の社員にとって脅威になってくるのが毎年1/800の倍率で入ってくる精鋭達の覚えの良さである。
皆いつも必死で自分よりも弱い者を探していた。
私も鬱憤を晴らすように仕事で示談代行を行うときは必要以上の圧を相手に掛けた。
仕事が慣れ、心が慣れ、身体が慣れてくると今度は仕事の内容に疑問を持つようになった。
飽和しきったこの業界が前年度以上の利鞘を稼ぐには他社から既存の顧客を奪う他ない。
ホールのアップルパイそれ自体の大きさが変わらないのであれば、他人の分のパイを奪うことで自分の腹を前年度よりも大きくするしかなくなってくる。
私は営業ではなく専門職という括りではあったが専門職の頭の中の知識が会社としての商品そのものだったので、営業に同行し、とにかく強豪他社のパイを食い漁った。
私の食べたパイがかつて誰かのパイであったことも気にせず自分の腹を満たした。
私がパイを食べ過ぎたせいで地方に飛んだ人や名刺の肩書きが変わる人が居ても、会社の中で自分が肩身が狭い思いをしたくない一心でパイを食べ続けた。
パイを食べ続けているうちに、私の渾身は何の付加価値をも生み出していないことに気がついた。
同時に、ひたすらに奪うことで毎月25日に支払われる対価を錬成していることにも疑問を持ち始めた。
別に人の役に立ちたくて仕事をしているわけではない。皆と同じく自分の生活を成り立たせるのが主な理由である。
それでも、私のこの必要以上の渾身は誰かを幸せにしているのだろうか、幼少から積み上げてきた努力や大学にまで進学し卒業したのはこんなことをする為だったのだろうか、こんなことをしている私が一生懸命大切に育ててくれた親の恩に果たして報いているのであろうか。
もう色々と限界だった。
それからは1年掛かりで転職の準備をした。
現在は前の業界とは縁もゆかりも無い業界に身を置いている。
とにかく勉強が必要だけれど、人の生活にきちんと根ざしている業界である。
Twitterでひいこらと言いながらも今のところ毎日楽しく勉強をしているし、この知識がいずれ人の役に立てるとなればモチベーションも前職とは違う。
私は今年26歳なので、4年後は30歳になっている。
生き急いでると笑われてしまうこともあるが、全てが中途半端で何者にもなっていない私でも30歳までには何かになっているか、若しくはその片鱗を自分の中に見つけられたらと思っている。
冒頭に挙げた講師の言葉が意外にも印象に残ってしまったせいか、私はこの先の人生も4年スパンで考えることになりそうである。
次の4年もきっと早い。