結婚できない男

昔から体育祭のリレーが嫌いだった。



リレーの選手に毎年選ばれる程度に足の速さには覚えがあったし、アンカーを任され1位を取ることも多かった。
走ってる最中や前走者を抜いたときの歓声はいつも気持ちが良かったし、リレーは必ず体育祭終盤に組み込まれており、かつ得点の配点も大きいのでチームへの貢献度が高いことも私の自尊心を満たしてくれていた。
矛盾するようだがリレーそれ自体は大きく分ければ好きだった。
そんな一見おいしい理由を含めてリレーが嫌いだった理由はリレーを走るように、アンカーを引き受けるように、そしてアンカーとして走るからにはチームを背負って結果を出すように「後は頼んだ」と責任を押し付けられるのがいつも嫌だったからである。



私は元来足が速かった訳ではなく、むしろ気管支が本当に弱くて少し走っただけで嘔吐をしたり、救急車で運ばれたりと走る以前のポンコツだったのだが、これではいかんと放課後毎日道端で嘔吐しながら自分の弱い気管支に鞭を打って走っているうちに足が速くなっていた。(思い返すと迷惑な話なので誇るどころか反省をしている。)



「こいつに任せればあとはなんとかしてくれるだろう」、そう思われるために私がどれだけの努力を積んできたのか、お前達は責任を投げるだけで想像をしたことも無いだろうといつも1人で腹を立てていた。
足が速くもないくせに威勢だけは良くて矢鱈と目立つうるさい奴等に「負けたら許さないぞ」と出鱈目な発破をかけられるのも癪に触ったし、そういう目立つだけの奴等に自分の順位をチーム全体の結果として喜ばれたり1位を取った感動から泣かれたのは今思い返しても腹が立つ。
































話は変わるが、25歳を境に求婚をされることが多くなった。



同姓の友人達と話をしているときに皆も同じ事を言っていた。
誤解を与えてしまうといけないので先に断っておくが、我々は誰もが振り向くような色男では決してないし、もっと分かりやすく言うと世間一般的にモテる方ではない。都市伝説に聞くモテさんとは生来疎遠である。
こんなブログを書くくらいだから自分で言うまでもなく、どちらかというと話もつまらない。



我々の頭を突き合わせて我々に共通していることを考え挙げてみる。
皆勤勉で、仕事に野心を持ち、酒も煙草もギャンブルも金の激しく掛かるようか趣味も無い。将来へのビジョンもある程度描けており、かつある程度のまとまった貯金ができている、女っ気があまりないといったことが出てくる。



続けて我々に求婚をしてくる女性達の共通項を、同じく皆で頭を突き合わせて考え挙げてみる。
皆容姿は整っていて、遊びに堪能で、労働の報酬は毎月綺麗に使い切り、もちろん貯えは殆ど無い。我々では考えられない数の元恋人が存在し、口癖は「そろそろ結婚がしたい」。



なるほど考えれば考えるほどに悲しくなってくるのだが、衣類を洗う機械や食料を冷やして保存する機械、米を炊く機械が生活に必要なように彼女達の生活にとって機械さながらのように金を泉のごとく生み出す"なにか”も必要なのだろう。


















私は結婚は独立した二人がするからこそ幸せになれるものだと思っている。
一人でも生きていけるような二人が恋に落ちて結ばれるからこそ価値があるのではないか、と。
近頃は結婚は契約と随分と人の営みを小馬鹿にした例えを使う人も増えてきたが、少なくとも結婚をゴールにしているような人との結婚に幸せを期待できるのかというと、私は難しいと思う。
先に挙げた彼女達のような女性について言うならば、今まで先のことを具体的に考えず、勉強もせず、金も貯めず、何かを積み重ねることを覚えることなく生きてきたような女性の人生の尻拭いに、人生の帳尻合わせにどうして自分が使われなければならないのかと。



配偶者の貯蓄をあてにしている訳ではなく、貯蓄が計画的にできていないような女性に家計を握らせることは恐ろしいし、そんな女性に母親が務まるのかも不安である。
そもそも誰かの人生に乗っからなければ生きていけないような配偶者なぞ究極の不良債権以外の何物でもない。
何を勘違いしているのかわからないが我々は独身を謳歌しているのだぞ、と。
君達に不本意ながら「こいつに任せればあとはなんとかしてくれるだろう」と思われるようになるまでに一体我々がどれだけの努力を積んできたか。














激しく既視感を感じるようになったのは最近だが、人生最後のリレーは18歳高校3年生。ここにきてかつて第4走者だった頃の自分と今の自分が重なるとは思っていなかった。